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  「デビューまでの道程」について  
ここでは、ポルノグラフィティのメンバーがこの世に誕生してから、1999年にメジャーデビューを果たすまでの軌跡を簡単にまとめています。
デビュー曲がいきなりヒットしたバンドですので、イメージ的にはほとんど下積みも苦労もないような気がしますが、実はそれぞれ、様々な壁にぶち当たりながら苦労してやっとデビューが叶った努力派ミュージシャンなんですよ(^^)
すべて読むには少し時間がかかると思いますが、読んだ後にはさらにポルノが好きになること必至!
あなたもメンバーが産まれた1974年から、まだまだ小さなメンバーたちと一緒に時代を振り返ってみてはいかがでしょうか?
参考文献:B-PASS SPACIALEDITION ポルノグラフィティ「ワイラノクロニクル」

  1974年〜 それぞれの学生時代  
〜1974年〜
4月27日 白玉家に男の子誕生。雅己と名付けられ、すくすくと育つ。
9月20日 新藤家に男の子誕生。晴一と名付けられ、すくすくと育つ。
10月15日 岡野家に男の子誕生。昭仁と名付けられ、すくすくと育つ。

〜1981年〜
4月 小学校入学。晴一とTamaは同じ小学校に通う。
■小学生の頃のメンバーの様子・・・
―昭仁―
とにかくワンパク小僧で、ケガをすることも度々…。
―晴一―
比較的社交的。
絵を描いたり漫画を描いたりするのが好きだった。
―Tama―
少し恥ずかしがりやだったが、活発に遊ぶ。

〜1983年〜
  昭仁、歌謡曲に興味を持ち聴き始める。“歌を歌う”ということに興味を持ったのもこのころ。

〜1987年〜
3月 小学校卒業。
4月 中学校入学。晴一とTamaは同じ中学校に通う。
■中学生の頃のメンバーの様子・・・
―昭仁―
サッカー部に入部。サッカー大好き少年に。
―晴一―
「バービーボーイズ」を聴いたのをきっかけにバンドというものに興味を持つ。
―Tama―
意外にも(?)サッカー部に入部。すでに洋楽なども聴いていた。中3のときに通販でギターを購入。

〜1990年〜
3月 中学校卒業
4月 昭仁と晴一は因島高校に入学。Tamaは愛媛の弓削高専に入学。
■高校入学の頃のメンバーの様子・・・
―昭仁―
引き続きサッカー部に入部。サッカー大好き青年に。
―晴一―
洋楽を聴くようになる。坊主のくせに髪の毛が赤かった。
―Tama―
同じ学校の友達とコピー・バンドを組む。
  晴一、「バービーボーイズ」に憧れて7万円のソプラノサックスを購入。
サックスを吹きながらのヴォーカルに憧れ、同じ高校にいたイトコをギター担当にし、杏子さん役の女の子も入れてツイン・ヴォーカルのバンドを組む。

〜1991年〜
  昭仁、カラオケボックスにて晴一にコーラスのスカウトをされる。
  文化祭にて「バービーボーイズ」をコピー。
昭仁のコーラスは“カモーン”の一言だけだった。
  文化祭後、晴一の歌がどれほど下手だったのかは定かではないが、イトコにぼそっと「お前、ギターやらん?」と言われ、ギターに転向。
それに伴い、昭仁はメイン・ヴォーカルに昇格。
さらに杏子さん役の女の子とも付き合い始め、晴一愕然。

〜1992年〜
  新入生歓迎会のスプリング・コンサートで、昭仁メイン・ヴォーカルデビュー。
  因島高校のベースが受験で抜け、Tamaに晴一のイトコから声がかかる。
ちなみにTamaはすでにギターからベースに転向。
Tamaが入ったことによって「文化祭に他校の生徒が参加するのはダメ」と教官に反対されたりもしたが、最後にはなんとか説得。
無事文化祭にて演奏。
ここでポルノグラフィティの原型は生まれた。
ただし、この時のバンド名は「ノー・スコア」。

〜1993年〜
3月 昭仁と晴一は無事因島高校を卒業。
卒業式の後にも「せっかくだから」とライヴをやらせてもらっていた。
Tamaはまだ高専に在学中。
昭仁・晴一の順に島を出る。Tamaは高専の4年生に進級。
■その頃のメンバーの様子・・・
―昭仁―
現役では大学に入れないと思い、浪人。
大阪に出てきて代々木ゼミナールの寮に入る。
その年の夏までは一生懸命勉強していたが、いつしか寮の友達と遊び歩くようになる。
音楽を一番聴いてたのもサッカーが一番上手かったのもこの時らしい。
―晴一―
広島県の福山市にある専門学校に入るが、2ヶ月くらいで辞める。
次に生まれたのは「大阪に行ってバンドをやる」という考えだった。
Tamaとヴォーカルを探すためのオーディションなどもしたがうまくいかず、「やはり昭仁とやりたいな」という気持ちが固まっていく。
―Tama―
晴一や同じ学校以外の人ともバンドを組んだりして、コンテストなどにも出場。
ある大会ではベスト・べーシスト賞を取ったりと、才能に満ち溢れていた。
ちなみに学校はサボりまくっていた。
  晴一とTamaは数々のコンテストに出場。
なかなかの良い成績を収め、プロというものを意識するようになる。
  Tamaは大阪の音楽学校に行ってもっと音楽を勉強したいと思い、4年で高専を辞める。
  晴一はTamaに「大阪行くなら一緒に住もう」と誘い、年末には2人暮らしができるところを見つけた。
来年の2月には大阪に出ようと言っていたがその部屋は4月まで空かないことが判明。

  1994年〜 ポルノグラフィティの結成  
〜1994年〜
2月 Tamaは大阪に出ることについて、親との交渉がうまく行かず、喧嘩ばかりしてついに家出を決意。
すでに大阪に住んでいた「ノー・スコア」のメンバー、“サカタ君”の家に4月まで居候させてもらう。
4月 晴一も大阪に進出。Tamaと2人で同居生活を始める。
昭仁は補欠合格でなんとか大阪の大学に受かった。
■その頃のメンバーの様子・・・
―昭仁―
大学に入学。
しかしちゃんと通っていたのは最初の1ヶ月だけで、その後はだらだらと生活するようになる。
―晴一―
マスターがシンガーソングライターのお店でバーテンのバイトを始める。
今後のバンド活動のために信頼を得ようと頑張って仕事をする。
―Tama―
音楽学校に通う。
延々と出される宿題をひたすらやり、「ベースで日本一になってやろう」と気合いは充分。
ついに「ポルノグラフィティ」のバンド活動開始。
Tamaの学校のドラム科の人を入れて4人で活動する。
10月 梅田のバナナホールにて初ライヴ。お客さんは30人くらいだった。
11月 古川橋のウッドペッカーにてライヴ。
アットホームな雰囲気のライヴだったとか。
デモ・テープを録り始める。とても適当な録り方だったらしい。
全3曲入りテープをライヴハウスに持ち込んだり、レコード会社に送ったりした。が、なかなか上手くいかず・・・

〜1995年〜
大阪の南港で行われた野外イベントに参加。
それがきっかけでソニーの新人発掘の“ケヤムラさん”に名刺をもらう。
晴一の電話番号を教え、その夜電話がかかってきて大喜び。
ただし、そのあと“ケヤムラさん”は練習スタジオに1回来ただけだった。
大阪の城天でもライヴをやり始める。
前のソニーのこともあって、自信満々でライヴをしていた。
11月 2丁目劇場でもライヴをやり始める。
お笑いライヴの合間に出て、外ではライヴ宣伝のチラシなどを配ったりした。
11月 一緒にやっていた城天チームの4バンドで、江坂ブーミンホールにてイベントを開催。
城天は大阪や神戸のバンドが多く、今までなんとなく“よそもの感”があったポルノグラフィティだが、このイベントの時に「僕らは島っ子よ〜」とジェームス・ブラウンの『セックスマシーン』の替え歌を披露。
それがとてもウケて、だんだんお客さんと打ち解け始める。
このときからファンは段々に増えていった。
フリーバードという小さなライヴハウスで初のワンマンライヴ。
この時からドラム担当のメンバーが変わった。
チケットは100円。雨が降ったらタダ。
お客さんは80人ぐらいで、12〜13曲披露。トークショーなどもやったらしい。
ここからどんどんバンド活動に力が入っていく。
この頃はとにかく人を集めようと必死だった。月10数本のライヴを重ねる。

〜1996年〜
昭仁、大学を3年生になるときに辞める。
7月20日 ミューズホールにて2回目のワンマンライヴ。
お客さんは250人くらい。着実にファンは増えていった。
数々のコンテストに出場する。だが、どれも優勝まであと一歩というところで敗退。
11月 BSヤングバトルに出場。全国大会までいったが、賞は取れず。
この頃「ポルノは今が絶頂だから」と言われ続け、悔しい思いをしていた。

  1997年〜 挫折、そしてデビューへの光  
〜1997年〜
1月 どのコンテストに出ても優勝することができず、光が見えなくなっていた。
「もう解散しようか」という諦めの雰囲気もあったらしい・・・が、このときに心斎橋クラブ・クアトロでワンマンライヴをすることが決定。
さらに、ソニーのケヤムラさんから連絡が。「3月に東京でSDオーディションがあるから受けてみないか」、と声がかかった。
「最後にやってみようか」とメンバーは決心する。
3月 東京にてSDオーディションを受ける。
結果は・・・“所属決定”!!
もちろん解散説は消滅。
「もう1回ちゃんとバンドをやってみよう」と、心新たに決意する。
4月27日 Tamaの23回目の誕生日、心斎橋クラブ・クアトロにてワンマンライヴ。
ソニーが「イベンターとかケータリングつけようか?雑誌に告知打とうか?」と言ってくれたが、「全部自分たちの手でやることが目標」と言い、それを断る。
チケットは2800円。お客さんはなんと、550人も来ていた。
プレッシャーもなく、とても良いライヴだったらしい。お客さんも暖かい雰囲気で“送り出してあげよう”としてくれた。
5月 所属事務所が決定。
9月 やっと東京へ行けることに。
だが、3人とも張り切りすぎて、家に入れる1日前に到着。
荷物はいったん事務所の倉庫に入れてもらい、1日だけ知り合いの家に泊まることになった。
翌日には無事入居。
■上京した頃のメンバーの様子・・・
―昭仁―
東京の街を歩くときはとても緊張したらしい。
「このよそもんが」みたいに見られてる感じがしたとか。
―晴一―
まず事務所に驚く。受け付けからエレベーターから部屋の間取り図から・・・
―Tama―
最初事務所にひとりで行くのがとても嫌だった。
中を覗いてほかの2人がまだ来てなかったら、来るのを待って一緒に入ったり。
9月以降 キーボードとドラムのサポートメンバーが入り、東京を楽しむ暇もないくらいの忙しい生活が始まる。
このサポートメンバーの2人からはアーティストとしてすごく影響を受けたとか。
この時の3人の“代表的な1日の流れ”は、朝6時ごろに寝て、昼3時ごろに起きて、5時くらいから事務所でミーティング・・・という生活だった。
ミーティングの後はスタッフについていき、飲むことが多かった。
バイトは禁止。1ヶ月に27日間は生きていかれるような微妙な金額のお給料をもらっていた。あとの3,4日はスタッフ頼みでなんとか生活。
このような生活が続く中で、喜びや楽しみというものはほとんどなかったという。
上京してからの1年はバンドとしての答えが出なくてずっと迷っていたらしい。

〜1998年〜
年明け 『ロマンチスト・エゴイスト』を作ったRyoさんと曲を作り始める。
Ryoさんの曲に歌詞をつけて5曲くらい作ったらしい。
5月、6月 大阪でライヴを行う。が、迷ったり悩んだりしていたそういう生活の中でのライヴはあまり良いものではなかった。
現プロデューサーの本間さんとやり始め、やっとこれからのバンドの方向性が見えてくる。
最初は本間さんが曲も詞も書いていたが、『アポロ』で晴一もやっと詞を書かせてもらえることになった。
10月下旬〜 北関東のライヴハウスを廻って、12〜13本の対バンのツアーをする。どこの会場もあまり人は入らなかった。
12月 ツアーと平行して、レコーディングを少しずつやっていく。『ヒトリノ夜』、『HeartBeat』、『マシンガントーク』はこの時の音源。

〜1999年〜
1月 『アポロ』のレコーディング。
北関東のツアーが終了。
1月22日 北関東のツアー後、大阪のネスト・サールンでワンマンライヴ。
小さいライヴハウスだったが、お客さんは200人くらい入り満杯。
久々に良いライヴができた、と思えたらしい。
アミューズの会長も見に来ていて、褒めてもらえたとか。
1月29日 大阪に引き続き、東京の渋谷オンエア・ネストでもワンマンライヴ。
こちらもお客さんは満杯。
Tamaが曲を書いて昭仁が詞を書いた『マイナスの感情』という曲の紹介で、昭仁が「僕たちが煮詰まってた時に出来た曲です。聴いて下さい。『マイナスの感情』・・・」というとってもネガティブな伝説のMCをしたのはこのライヴ。
1月〜3月 ひたすらレコーディングの日々。4月までには1stアルバムの収録曲のほとんどを録り終えていた。
3月〜 1時間のラジオのパーソナリティーを始める。が、この年の10月で終了。
すっごく高いテンションで喋るくせして、会話のキャッチボールはできていなかったという。
4月 デビュー予定は4月だったが、「7月の何日かになった」と言われる。でも結局は9月まで延びた。
7月 デビューに向けていよいよ忙しくなる。取材などもこの時くらいから徐々に始まった。
新人なのに多くの雑誌掲載にTV番組出演にと、とても恵まれていた。
9月5日 音楽番組「HEY!HEY!HEY!」の収録。デビュー前に録った、一番大きな番組だったらしい。
当時の映像を見れば、メンバーのその緊張ぶりが伝わってくる。
9月8日 ついに1stシングル『アポロ』リリース!!念願のメジャーデビューを果たす。

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